“好き”という感情は難解だ
“恋”や“愛”も同様に
那波夜人は重い溜息を吐きながら、目の前のテーブルに向かいずるずると突っ伏した。頭を抱えるようにして一人静かに目を閉じる。突然そんな風にすれば、当然その場に居る者は驚くわけで。
「夜人君、どうかした?」
その時同じリビングのソファに座っていた、彼の彼女である結城志乃は読んでいた雑誌から顔を上げ、夜人の方へ視線を向けた。けれど広いリビングに突っ伏したままの夜人は、ひらひらと手を振って。
「いや、何でもない……」
というばかりだった。明らかに様子がおかしいというのに。
今同居人の加納柊と、先日その愛人になった浜中奈千佳は連れ立って買い物へ出かけている。よって今は志乃と夜人の二人だけ。加納家ではもう見慣れた光景となってしまっていたが、これは常識的に考えて随分おかしな光景であった。
何処からおかしくなったのか。
まず家庭の様々な事情により、夜人と柊が同居を始めた。これはおかしなことでも無い。
次に柊と夜人が同時に志乃の恋人になった。恋人というよりは、彼氏と言った方が的確なのだろう。これは柊の発言が原因だった。この時点から既に、何かがおかしくなっていたのかもしれない。
それでも夜人はそのことは大して気にもせずに生活していた。それは、その問題点に触れることが怖かったのかもしれないし、三人で居ることが楽しかったからかもしれない。真相は夜人の心の内。
そして今回、唐突に柊が奈千佳を拾ってきた。それも愛人として、だ。
夜人は面食らって何も言うことが出来なかった。
それからこうして四人で居ることが多くなったわけだが、明らかにおかしい。こんな状況、長く続くわけがないだろう。
今は皆この状況を楽しんでいるようだけれど、このままでいられるわけがない。
そう、このままでいられる筈は。
「やーひーとー君?」
「うわっ」
思考の途中で、突然夜人は背後から志乃に乗りかかられたことによりその思考を停止してしまった。志乃は溜息ばかり吐いていた夜人の背後に近付き、唐突にその背から首に腕を巻きつけるようにして抱き着いたのだ。そうして夜人の顔を覗き込み、首を傾げる。
唐突に抱きつかれて、驚いた夜人だったけれど。そんな志乃の行動の真意を察することが出来て、ふっとその表情に笑みを浮かべた。
「……ほんとに、何でもないよ」
曖昧な笑みを浮かべたまま、抱き着いた志乃の頭に軽く手を乗せた。その微笑みに満足したのか、志乃もにっこりと微笑みかえしてからするりとその腕を解いた。
夜人のことを心配してくれていたのだ、志乃は。
そんな彼女の心遣いが、夜人にとってはとても居心地の良いものだった。
ふと夜人は顔を上げて、部屋の天井を見上げる。真っ白い、部屋の天井。蛍光灯に照らされて輝くその天井を、すっかりもう見慣れてしまっている。
何かが狂っているこの部屋に、長く留まっていたいと。夜人は心の奥でそう思っていることに自身で気付いていた。
けれどきっと、そうもいかない。
志乃は好き。奈千佳は嫌いではない。柊は、夜人にとって一番理解出来ないところであった。
自分の心情がわからなくなっていく。
きっとみんな好きで、でもきっと愛ではなくて。
夜人はまた一つ溜息をついて、幾ら考えても答えの出ない思考の闇を打ち切った。
「ねぇ、ひぃ」
柊をひぃと呼ぶのは彼女くらいしか居ない。
奈千佳は隣を歩いていた柊の裾を引っ張り、ふいに呼びかけた。けれど視線は逸らしたまま。
「どうした?」
柊は買った物を両手にぶら下げながら、奈千佳の方を見下ろした。けれど彼女は、遠い方を向いたままで。
二人は連れ立って買い物に出かけ、今はその帰り。夜人達の待つマンションまで目と鼻の先にある街路樹の佇む大通りを歩いていた。お昼時を過ぎたこんな中途半端な時間には他に人通りもなくて、時折通る車の音もそんなに騒音ではなかった。
柊は、遠くを見る奈千佳の視線を追った。その先にあったのは、小さな公園。いつもは子供が賑わっているであろうその公園が、今はほとんど人の影が見えなかった。
「寄ろう?」
言いながら、奈千佳は柊の裾から手を離してそちらの方へ足早に駆け出した。柊は暫しその背中を見守るように眺めていたが、溜息もつかずに彼女の後へと続いて歩く。
奈千佳達が入った公園には、見事なまでに人がいなかった。普段なら、まだ幼い赤ちゃんを連れた母親の姿や幼稚園帰りの親子の姿が見えるものなのに、今日に限っては誰ひとりとしていなくて。奈千佳と柊以外にその姿は見えなかった。
人工的な緑に囲まれた、小さな公園。奈千佳は置いてある遊具一つ一つに駆け寄った。最初はブランコ、次にシーソー。さすがに砂場までは足を踏み入れずにいて。柊はその一つ一つにゆっくりとした足取りでついて回っていた。奈千佳がブランコに座れば、隣に腰を下ろして。シーソーをやって向かいに座れと言われれば、その通りにして。特にその表情に抑揚は見られなかった。
そして最後に、奈千佳は砂場の近くに設置されていたブランコへと駆け上がった。軽やかに鉄製の階段を駆け上がる音を耳にしながら、柊は滑り降りてくるものだと信じ込み、滑り台の先を隣で見詰めていたのだけれど。
奈千佳は降りて来なかった。
「……奈千佳?」
淡い色をした、古びた滑り台の隣で。柊は不思議そうな顔をしながら上へと駆け上がった奈千佳の方を見上げた。けれど姿までは見えなくて。
少し滑り台から離れるようにすれば、滑り台のその上で奈千佳は体育座りのように両膝を抱えたまま座り込んでいた。滑り降りようともしないで、ただ前を見て。
「……奈千佳」
「ひぃ」
柊が奈千佳の名を呼ぶと、それを遮るようにしっかりとした声で奈千佳が口を開いた。柊は、それ以上何も言うことはなくただ奈千佳の顔を見て、次の言葉を待つ。
風が、吹いていた。暑苦しかったあの風ではなくて、秋へと変わり始めた涼しい風が。二人の髪を同じように揺らして。
「夜人君のこと、好き?」
まるで耳元で聞こえたかのように、その声を柊の耳へと届けていた。
突然耳につく、葉擦れの音。近くの道路を走る、車のエンジン音。まるで世界の音がいっぺんに聞こえだしたかのようだった。
けれど柊はその表情を一切変えず、ただ淡々とした表情で告げる。
「好きだよ」
きっぱりと、はっきりと。重い口調はけれど、何処か彼らしさを残した声で奈千佳の元へと聞こえていた。
それを聞いた瞬間、奈千佳の瞳が一瞬揺れて。淡い微笑を浮かべたことを、柊は知らない。
世界の音が元へと戻りつつあった。煩く聞こえていたような周囲の雑音は次第に落ち着いて、代わりに子供達のざわめきが聞こえ始めている。恐らく近所の子供達が遊びに来たのだろう。間もなく大勢の子供達が入ってくる。
「奈千佳」
力強く呼ばれた名前に、奈千佳は漸く顔を上げた。抱えていた両膝に埋めていた顔を上げて、下にいる柊に視線を落とすと。彼は奈千佳を見上げたまま、柔らかい表情で告げた。
「帰ろう」
先ほどよりも柔らかな表情を、奈千佳は静かに見下ろしていたけれど。穏やかなその柊に応えるように、ふっと笑みを浮かべて頷いた。
二人がその公園を後にするのと同時に、近所の子供達は駆け足でその公園の中へと走っていって。二人はその様子を眺め、特に会話もないまま再び歩き出した。荷物は柊が持って、奈千佳はその隣を歩いて。
二人を待つ、家まで。
日も沈み、普通ならそろそろ眠りにつこうという時刻。志乃は隣である自分の家に帰り、奈千佳はこのでの奈千佳の部屋に篭もり何やら作業をしている。
そんな中、夕食もすんだ夜人は一人自室で大音量で音楽を聞いていた。壁はそんなに薄いわけでもなく、このくらいの音ならと判断して決めている音量だが、それにしても尋常の人間にはやや大きめだ。そんなのを微塵も気にする様子はなく、夜人はデッキから気に入っているアーティストの音楽を流し続けて。ベッドの上に座り込み買ったばかりの雑誌を広げていた。
ページを捲れば、するはずの音が音楽に飲み込まれている。
そんな部屋の中で、ふいにドアを叩く音がした。そんな音楽の中でも、夜人にもきちんとノックする音は届いていて。それでも顔を上げなかった。
その人物はわかりきっていたから。
夜人の返事も待たず、がちゃっと音を立てて部屋のドアを開けたのは柊だった。
彼は片手に文庫本サイズの本を持ち、一直線に夜人が座るベッドのところまで歩み寄って来る。すると夜人はひょいと膝に広げていた雑誌を持ち上げて、同時に柊は倒れこむようにそのベッドに横になった。
もちろん頭は、夜人の膝の上。
「……冬休みはライブ行くからな」
「だからアルバム貸せってば」
横にずらした雑誌に視線を向けたまま、夜人が他愛のない話をすれば。柊も本に目を通したまま即座にそれに答えた。
結構な音量の音楽が鳴る中で、夜人は聞こえた声に笑みを零して。いつものように柊の髪に触れた。その髪に指を絡めては梳いていく。殆ど癖になっているそれを無意識のうちに繰り返して。
音楽の波に飲み込まれた部屋で、その光景は続けられて。
セットしてあったタイマー通りに音が止む頃には、二人の寝息が代わりにその部屋に響き渡っていた。
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某素敵お嬢さんに送らせたから送られてきた、とても素敵なFIND OUT。
続くらしいから乞うご期待。
あと文字色で遊んだのは私です。いかんかったら直すから叫んで。